富山のフリーアナウンサー松岡千穂です。司会(MC)やナレーションなど、声と言葉の力で元気を届けたいと願っておりまがす。

皆さんは、今年の元日はどのようにお過ごしになりましたか?

令和6年1月1日。

この日は日本国民にとって忘れられない日になりました。

そう、痛ましい災害、能登地震が発生してしまった日です。

私が住んでいる富山県も、大きな被害を受けました。

私はその日、家族と一緒に初詣に出かけており、

その帰り道、車内で信号待ちをしているときに、地震に遭いました。

突然鳴り響くスマホからの警告音。

この先何かとんでもないことが起こる予感がしました。

まもなくして、今までに経験したことのない揺れ。

車が左右に激しく揺れました。

テレビをNHKに切り替えると、アナウンサーの「津波、逃げて!」という尋常ではない声。

海側の方面から、どんどん車が山手のほうに向けてやってきました。

「これは、避難の車だ。私たちも逃げなければ!」

すぐに、実家の母に電話しましたが、繋がりません。

緊張が走ります。

その後、電話がつながり、とにかく、私も今から向かうから私の家で合流しようと告げました。

そして、万が一に備え、飲み物や食べ物を買おうとコンビニに駆け込みましたが、入り口にはロープが張られ、封鎖状態。

あきらめて、家に向かうと、実家の母が到着しており、すぐさま、皆で山手にある小学校へ向かいました。

小学校には、避難してきた車がいっぱい。グラウンドにも車が止められています。

校舎の3Fが開放されていました。

私は車の中で、テレビや、X、Facebookを見て、情報収集。

悲惨な状況に、全身が震えました。

富山は、これまで大きな地震がありませんでした。

だから、自分がこういう目に遭遇するなんて、思いもしませんでした。

幸い、私も家族も無事でしたが、私は思いました。

「いつ人生が終わってしまうか分からないんだ!」

「私のこの先の人生、このままでいいんだろうか。」

そう自問自答したとき、自分の夢を思い出しました。

小学生の時、風邪をひいて一人家で寝込んでいた時、ラジオから聴こえてきたアナウンサーの明るい声。

声に励まされ、不思議と寂しさが薄れ、元気になった私。

「私も人を元気にすることができるアナウンサーになりたい。」

努力の甲斐あって、アナウンサーになることは出来ましたが、いつの間にか、会社経営を勉強する立場に代わっており、アナウンサーとしての仕事をする機会は、次第に減っていきました。

「このままでいいんだろうか。いやダメだ。後悔のない、自分のやりたいこと、信念に基づく人生を送りたい」

そう強く思い、自分で開業し、フリーアナウンサーになろうと決めました。

こうと決めたら猪突猛進。

自分に残された時間は、限りがある。

1月13日にインターネット上で、税務署に開業届を出しました。

屋号は、Lively。元気な、活発なという意味です。

今日は、震災から1カ月と11日目です。

今なお、地震の被害に苦しみ、辛い状況にいる人たちがいます。

主人の会社には、亡くなった方や、住む家がなくなってしまった方もいると聞きました。

また、地震のトラウマに悩まされている人もいます。

何か、私にできることはないか。

声と言葉の力で、人を元気に、活発にすることはできないだろか?

そう考える毎日です。

被災地の皆さんが、早く元の生活に戻ってまた楽しい毎日が過ごせることを願ってやみません。

長文になってしまいました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

今日は、令和6年1月1日の私の決意についてお話しました。

この写真は、アナウンサー1年目、NHK富山放送局時代のものです。

アナウンサーとして、私の再奮闘は、始まったばかりです。